LOGIN案内された部屋は、仮住まいという言葉から一番遠い場所だった。
玄関だけで私の部屋のキッチンくらいある。 廊下はまっすぐ伸びていて、壁には間接照明が入っている。奥のリビングには大きなソファと低いテーブル。窓の向こうには、夜景。 夜景。 自宅で夜景という単語を使う日が来るとは思わなかった。「こちらは、鷹宮側で管理している住居の一つです。現在は空室で、家具家電も一通りそろっております」 久世さんは淡々と説明した。 その淡々さが怖い。 たぶんこの人にとっては、これもただの業務なのだ。「空室」「はい」「この部屋が」「はい」「空いているから使ってください、みたいな温度で出てくる部屋ではないと思います」「安全性を優先しておりますので」 また安全性。 便利な盾だ。その日の退勤間際、玲央さんからメッセージが届いた。『本日、少しお時間はありますか』 画面を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。 仕事の話かもしれない。 そう思ったのに、続けて届いた文面は違っていた。『駅前で、夕食を選ぶ練習をしたいです』 私は思わず笑ってしまった。 夕食を選ぶ練習。 以前なら、そんな言い方をする人はいなかった。 けれど玲央さんが言うと、本当に練習なのだと分かる。 正解ではなく、好きで選ぶ練習。 必要性ではなく、食べたいもので決める練習。「何、顔ゆるんでる」 隣から朱音が覗き込んできた。「ゆるんでない」「今の顔でそれ言う?」「仕事終わりの連絡」「水族館の人?」「……うん」「水族館の人、呼び名がずっと水族館の人なのじわじわ来るね」「朱音がそう呼ぶからでしょ」「で、何だって?」「夕食を選ぶ練習がしたいって」 朱音は三秒ほど黙ったあと、真顔で言った。「水族館の人、幼児教育みたいなことしてる?」「言い方」「だって夕食を選ぶ練習って、なかなか聞かないよ」「本人は真剣だから」「そこが余計に面白いんだけど」 否定しようとして、できなかった。 嬉しい。 たぶん、嬉しい。 会う理由が仕事ではないこと。 でも、恋人らしい約束と言い切るには、まだ少し怖くない距離であること。 その曖昧さに、私は安心しているのかもしれない。「行ってきなよ」「うん」「仕事の名前で呼ばれ始めた琴葉が、仕事終わりにご飯行くのいいじゃん」「何それ」「成長記念」「大げさ」「大げさじゃないよ。今日は行っときな」 朱
社内での評価は、拍手と一緒に上がるものだと思っていた。 誰かに大きく褒められる。 会議で名前を出される。 成果として分かりやすく数字に残る。 そういうものだけが、評価なのだと。 でも、実際は少し違った。「朝比奈さん、この表現だけ確認してもらえますか」 午前中、事業推進室の担当者から声をかけられた。 結和ケア向けの修正資料ではない。 別の地域連携案件で使う、自治体向け説明文だった。「私でいいんですか?」「はい。現場向けと管理者向けで、言い方を分けるところを見てもらいたくて」 差し出された資料には、丁寧な文章が並んでいた。 けれど、少しだけ固い。 誰に向かっているのかが、途中でぼやけている。「ここ、自治体の窓口担当者向けなら、先に問い合わせ先を出した方がいいかもしれません。目的の説明は必要ですが、最初にあると少し遠く感じます」「やっぱりそうですか」「あと、住民向けにそのまま使うなら、言葉をもう少し変えた方がいいと思います」 そう言うと、担当者はすぐにメモを取った。「助かります。朝比奈さん、最近こういう整理が上手いですよね」「上手い、というほどでは」「いえ。使う人ごとに分ける視点、こちらでも参考にしています」 その言葉に、私は少しだけ返事に困った。 褒められている。 でも、大きな成果としてではない。 必要な時に少し意見を聞かれる。 そのくらいの小さな形で。 午後には別の部署からも声がかかった。「朝比奈さん、結和ケアの確認カードって、三行にしたんですよね」「はい」「うちの案内文も短くしたいんですが、削ると怒られそうで」「誰に向けた案内ですか?」「登録事業者向けです」「それなら、全部削るより、最初に“今日確認してほしいこと”を
白藤福祉財団の応接室で、紗雪は一枚の中間共有メモに目を通していた。 鷹宮グループが進める生活支援連携案について。 結和ケアとの試験導入初期の状況。 利用者個人が特定される情報は含まれていない。 どの地域で、どの家庭で、何が起きたのかも書かれていない。 あるのは、試験導入の進み方と、現場側から出ている改善点、そして小さな利用事例だけだった。 現場向け確認カードを使用した初回事例あり。 連携導線の確認。 家族連絡の重複を一件削減。 紗雪は、その一文で指を止めた。 一件。 数字としては、あまりにも小さい。 成果として誇るには控えめで、事業として語るにはまだ早い。 大きな会議の場であれば、見落とされてもおかしくない数字だった。 けれど、紗雪は笑わなかった。「紗雪様。こちらの案件、現段階ではまだ評価が難しいでしょうか」 財団の理事が向かいから尋ねた。 年配の男性で、白藤家とは長く付き合いがある。 穏やかな人だが、数字を見る目は厳しい。「難しいことは確かですわ」 紗雪はメモを静かに置いた。「ただし、軽く見る段階でもありません」「一件だけですが」「ええ。一件だけです」 紗雪は否定しなかった。 小さいものを無理に大きく言い換える必要はない。 それは、かえって品がない。「けれど、初期導入で大事なのは、最初から大きな数字を出すことだけではありません。現場が一度でも使い、その結果が戻ってきて、次の改善につながるかどうかです」 理事は少しだけ目を細めた。「継続の芽、ということですか」「そうですわ」 紗雪は頷いた。「新しい仕組みは、説明会で拍手されても使われないことがあります。逆に、最初は厳しい声が多くても、使われた上で具体的な指摘が返ってくるなら、まだ育てられる余地があります」
ノヴァリンクの会議室で、陽斗は新しい資料に目を通していた。 生活支援領域に関する競合動向。 鷹宮グループの試験導入状況。 地域事業者との連携可能性。 小鳥遊ホールディングスとの共同構想を進めるうえで、確認しておくべき項目はいくつもある。 その中の一枚で、陽斗の視線が止まった。 鷹宮グループ側の生活支援連携案について。 結和ケアとの試験導入は、現場負担を抑える方向で調整中。 交流会後の参加者メモには、現場側の意見を反映しながら運用案を修正しているとの記載がある。 説明担当者。 朝比奈琴葉。 その文字を見た瞬間、資料の内容が一度遠のいた。 琴葉。 陽斗の中では、まだそう呼ぶ名前だった。 けれど資料の上では違う。 朝比奈琴葉。 鷹宮グループ側担当者。 過去の婚約者ではなく、他社の資料に載る担当者の名前として、そこにあった。「一件削減、か」 隣の社員が資料を見ながら言った。「数字としては小さいですね。まだ警戒する段階ではないかと」「ああ」 陽斗は短く答えた。 たしかに、数字だけなら小さい。 大きな導入実績ではない。 市場を動かすほどの成果でもない。 けれど、陽斗はそこを簡単に流せなかった。 資料には、初期成果という見出しではなく、最初の利用事例と改善点、と書かれている。 大きく見せようとしていない。 けれど小さく扱いすぎてもいない。 その言葉の選び方に、交流会で見た琴葉の顔が重なった。 任された仕事を考えて、現場の話を聞いて、自分で答えた。 あの時の声。 あの時の線の引き方。 陽斗の知らない琴葉だった。 いや。 知らなかったのは、本当に琴葉の方だったのだろうか。「陽斗さん」
一件だけの成果は、思っていたより早く社内に広がった。 もちろん、華々しい成果としてではない。 試験導入初期の共有事項として。 生活支援連携案の初期反応として。 担当部門の中で、いくつかの資料に小さく載っただけだ。 それでも、私にとっては十分だった。 現場で一度使われた。 迷いが一つ減った。 電話が一つ減った。 その意味を、ちゃんと説明できた。 そう思っていた。 午後、事業推進室の共有スペースで、次回修正案について話していた時だった。「電話が一本減った、か」 少し離れた席から声が聞こえた。 管理部門の人だった。 名前は知っている。 直接話したことは、ほとんどない。「それを成果として出すには、少し弱いんじゃないですか」 声は大きすぎない。 けれど、聞こえる程度にははっきりしていた。 周囲の空気が、少し止まる。 私は手元の資料を押さえた。 胸の奥が、一瞬だけ縮む。 弱い。 その言葉は、分かる。 数字として見れば、たった一件だ。 新規事業の成果として掲げるには、小さすぎる。 そう言われても仕方がない。 けれど。「朝比奈さん」 事業推進室の担当者が、少し心配そうに私を見た。 私は小さく首を振った。 大丈夫。 たぶん、大丈夫。「確かに、大きな成果ではありません」 私は資料を持ち、声のした方へ向いた。「電話が一本減っただけで、事業化の判断ができるとは思っていません」 相手は少し意外そうにこちらを見る。 反論されると思っていたのかもしれない。 あるいは、黙ると思っていたのかもしれない。「ただ、今回の試験導入で見たいのは、最初から大きな数字だけでは
翌朝、私は社内報告用の資料を開いた。 結和ケア試験導入・初期反応報告。 そう打ったタイトルの下に、昨日の宮坂さんから聞いた内容を整理していく。 配食スタッフが気づきを残した。 訪問支援スタッフが事前に確認できた。 家族への連絡が一度で済んだ。 電話が一つ減った。 そこまで打って、指が止まる。 一つ。 数字だけ見れば、とても小さい。 けれど、その一つが現場では大事なのだと、宮坂さんは説明してくれた。 誰に伝えるべきか迷う時間が減った。 記録しても無駄ではないと思えた。 次も残してみようと思える入口になった。 私はその言葉を、できるだけ削らずに残すことにした。 報告書は短くするべきだ。 でも、短くしすぎて意味まで消してはいけない。 午前十時。 事業推進室の小さな会議室で、試験導入の初期報告が始まった。 出席者は、担当部門の上司と事業推進室の数名。 玲央さんはいない。 それでよかった。 ここで評価されるなら、玲央さんの前ではなく、この仕事を見ている人たちの前で評価されたい。「では、朝比奈さん。お願いします」「はい」 私は資料を開いた。「試験導入開始から一週間の初期反応について報告します。まず、現場向け確認カードは全員に定着している段階ではありません。連絡先の明記、職種別の記録例、家族連絡の確認欄について、改善要望が出ています」 最初に課題を出す。 良く見せるために、都合のいいところだけ並べたくなかった。「一方で、実際に連携が一件動いたケースがありました」 会議室の空気が少し変わる。 私は続けた。「配食スタッフが、利用者さんの受け答えが普段より曖昧だったことを記録しました。緊急対応ではありませんでしたが、訪問支援スタッフが訪問前にその記録を確認し、地域連携室へ状況







